◆五悠♀(※宿儺が悠仁の子供)
五条がそこに到着した時には今回の目的である人が一級や準一級呪術師たちに逃げ道を塞ぐように囲まれていた。
歌姫が五条に気付き遅いわよ、と視線だけで睨み付けた。
ごめんごめん、と手を振って五条は件の人…囲まれている女性に視線を向けた。
白のノースリーブのパーカーに膝までのジンズが汚れていた。
対戦した際に肌のあちこちに出来たかすり傷から血が滲み肌を赤く染めていた。
栗色と黒の短髪の女性で、年齢は二十歳くらいだろうか。取り囲む呪術師たちを睨み付ける琥珀は凛としていた。
「あの女性が…?」
五条はその女性を見て首を傾げた。
どう見てもただの一般人に見えるのに。
【両面宿儺】が目覚めた。
そう上から連絡を受けたからこそ五条はここに来た。
特級呪物に対抗出来る現代の呪術師は五条以外に存在しない。真っ先に連絡を受けたがその時には五条は別件で仕事していたから遅れて到着した。
どれくらいの被害が及ぶのか予測不可能の為、直ぐにでも領域展開するつもりでいたが仲間の呪術師達が囲んでいるのはただの一般人ではないか、疑問に思った次の瞬間に五条は直ぐに理解した。
【両面宿儺】は女の方じゃない。
腕の中にいる子供の方が【両面宿儺】なのだと、分かった。
子供から発せられる禍々しい空気がどす黒いオーラを漂わせていた。
*
「…アンタ達、一体何だよっ」
ぎゅっと眠る子供を抱き締めて奪わせるものかと、女がジリジリと後退り武器を構える者達を睨み付ける。
「その子どもを寄越しなさい!」
ビッ!と歌姫が薙刀を女に向ければ女は渡さない!と歌姫を強く睨み付ける。いきなり知らない人間に囲まれて問答無用で武器を向けられ、そんな事を言われてはいどうぞ、と渡す筈がないのが普通の反応だ。
あの女は【両面宿儺】の何だ?
五条は構えもせずに首を傾げる。
「猿が手こずらせるね」
「傑」
スっと先に来ていた五条の親友、夏油傑が前に出てあっという間に女の間合いに入り細い腕からスヤスヤ眠っていた子供を奪い取る。
「っ!!?す、くなぁ!!」
奪い返そうとした女から距離を取り夏油はまるで汚物を見るような目で子供を見下ろし表情を歪める。触るのも汚らわしいと舌打ちしている。
女が悲痛な叫びで手を伸ばすのに、五条は女が叫んだ【両面宿儺】の名前がそのままな事に目を細めた。
「忌々しい存在が…目覚める前に殺してしまおう」
「待て傑!」
夏油が懐から呪具の短刀を取り出し子供の首に当てがうと嫌な予感を感じた五条は夏油に制止するよう声を上げた。
短刀が子供に当てられたのを見て女は琥珀の目を大きく見開いた。
「や、やめろ…すくなぁー!!!」
琥珀の目から一滴の涙が零れ落ちた瞬間、ずっと眠っていた子供がぱちりと目を開いた。
一瞬にして辺りを息が詰まるような呪力が充満して呪術師達が冷や汗をかいて固まった。嫌な予感が当たった。
小さな深紅の目がきょろりと周りを見渡し己を抱いている夏油にひたりと視線が止まったその時、先程出来た傷かと思われた傷跡が開いた。
深紅の眼が4つ。
視線が射抜いた途端自分に向けられた殺意の呪力に驚いた夏油が思わず腕の力を緩めてしまうと子供が重力に従って落下しそうになった。
あ、と思ったが突風が巻き起こったかと思うような風が夏油の前を過ぎる。落下するかと思った子供は、先程とは違う場所にいた筈の女の腕の中に戻っていた。
いつの間に、そう驚く周りが座喚くと女が顔を上げた。
「な……」
「宿儺の器…?!!」
顔を上げた女の琥珀の目が深紅に変わっていた。目の下に子供と同じように2つ目が開いていた。そしてズズズッ…と顔に浮かび上がって広がる紅い模様。
額の模様が完全に浮かび上がってボンヤリしていた目が1度その目を閉じた。そして再び目を開いた瞬間、肌を刺した呪力が膨れ上がって空を黒く染めた。
流石は呪いの王、女の姿であろうとそこに存在するだけで威風辺りを払っている。
重々しい呪力に押し潰されそうになった経験が余りない呪術師達が怖気付いていた。
「…泣かしたな、コイツを」
地を這うような声音で女が冷たい視線で夏油を睨み付け、お腹に指を添えると心臓の上に掛けて指をゆっくり這わせた。
「そ…んな、両面宿儺は子供の方じゃ…!?」
「いや!子供の方で間違いはない、目が4つ開いた!」
動揺する呪術師たちを見渡し、女はせせら笑う。
片手で抱いている子供を抱え直し頬を寄せて口元に笑みを浮かべたまま呪術師の疑問に答えてやった。
「そう、如何にも両面宿儺はこの赤子。だがこの体の持ち主は苟も俺の母、この腹から産まれ出た故に体を乗っ取る等…容易いこと」
ニヤりと笑ったその顔が歪む。
母親、そうか。母親だったのか…!!
五条は女と子供に感じていた違和感についてやっと納得した。
そして子供…両面宿儺の地雷が母親だった事も理解して動けず立ち尽くす仲間の前に出た。
「ん?何だ、オマエ」
「五条悟。現世で唯一両面宿儺に対抗出来る特級呪術師だよ。初めましてかな、両面宿儺」
「ほぅ…?」
面白そうに女が首を傾げた。
して、どうするつもりだ?と五条の出方を見物するように女が五条をじっと見つめる。
どうもこうもしないよ…。
五条は溜息を吐きたいのをグッと堪えた。確かに五条は唯一宿儺に対抗出来る程の力を持っているがだからって憾むらくにパパっと宿儺を祓える訳ではない。
宿儺の持つ呪術の力は凄まじく異彩を放っているのだ。今ここで衝突しょうものなら被害なんて街ひとつで済む筈がない。領域を展開しょうがそれでも及ぶ被害はある。
宿儺が目覚める前に祓う、そう規定により定められていた。
だから連絡を受けた時点でまだ何も出来ない子供を祓うつもりだったのに宿儺が母親に受肉出来ている状況で祓うなんて到底無理な話だ。
印を結べるのと結べないとじゃ、力量が変わる。
母親に受肉している宿儺は自由自在に印を結べて呪術を繰り出せるって事だ。今ここにいる五条以外の呪術師たちがまだ生きている事が不思議で、しかし幸いだ。
「君にも、その母親にも何もしないよ」
そう五条が口にすると周りが目を見開く。
歌姫が重い体を何とか動かして五条の胸ぐらを掴んで詰め寄った。
「ちょっと五条?!両面宿儺を前にして何言ってるのよ!!今ここで祓わないとどれだけの被害が…!!」
「歌姫。今は無理だよ」
分かるだろ?と言外に含めて五条が言えば歌姫はグッと悔しそうに唇を噛み締めた。
そう、ここで宿儺と正面から殺り合っても勝算は低い。そんな確率もないのに呪いの王に挑むなんて鳥滸な沙汰だ。
傍から見れば人数はこっちが勝っていても力量や呪術式を比べたら窮地に陥っているのはこっちなのだ。
「ククッ…ならば如何様にする?」
喉を震わせて笑みを零した母親の体に居る宿儺が近場にあった大きな石に腰を下ろし腕の中の子供をあやす様に腕を揺らす。
たったのそれだけの動きだけでも辺りに緊張感が走り空気が張り詰める。
そんな空気を意にも介せず宿儺はスっと足を組む。
「…君が何もせず大人しくしてくれるのなら、ある程度君の要望を聞こう」
「成程。緩急宜しきを得る決断だな」
存外話の分かる男で驚いたぞ。と嗤う顔に五条は肩を竦めてみせた。
「ここで仲間を無意味に殺される訳にはいかないからね。これ以上呪術師が減るのは本当に困るんだよ」
君たち呪いに寄る被害は増す一方だしそれに駆り出された呪術師達が無事に帰って来れる確率は高くはない。
結構呪術界隈も厳しいンだよ?それなのにここで君の討伐で全力を出して死んでしまったら僕が上からグチグチ言われるに決まってるじゃん、イヤだよ。面倒くさい。
最終的には愚痴になってしまっている五条の話に宿儺は呆れたように失笑したがそうさな、と頷いた。
「今すぐこの世を血の海に変えよう等と思ってはおらん。故に何もする気はない。俺の体もまだ話せぬ赤子のままだしな」
赤子の頬を優しく撫でて宿儺は眼差しを柔らかくしたかのように見えた。五条がじゃあ、此方の要求は…と口にすれば深紅の目が五条を射抜き、良かろう。と認容した。
「俺の要望は一つ、」
この契約が破ぶられた暁にはオマエ達呪術師含め、この世の半分の人間共には塵となって消えて貰う。その事を努努忘れるなよ。
艶美な笑みを浮かべて五条の要求を容認した宿儺だったが、約束が守れなかった場合に起こるとされる言葉の内容は肝が冷えてしまうような恐ろしいものだった。
「約束は守るよ」
五条は頷き、命を持って約束は守ると誓った。
宿儺の畏れに動けず異論など出来なかった周りの呪術師達は固唾を飲んで契約が結ばれたのを見つめるしかなった。
斯くして、五条と宿儺の間に契約が交わされてその場は丸く収まったのであった。
**
「さて、と…」
1時間も経ってないのに何だが何週間も労働したような疲れを感じてしまった、と五条は体を伸ばし視線を下ろした。
「君の名前は?」
石に腰を下ろしたまま所在なさげに子供の中に戻った宿儺を抱き締めながら母親の女性がチラッと上目遣いで五条を見上げた。
契約が成され、宿儺は釘を刺してから母親から出て行った。
宿儺に体を支配されてても驚く事に意識は合ったのか深紅の眼が閉じて次に琥珀の眼が開かれるとそのまま逃げ出すような動きはなかった。
ただ安心はまだ出来ないのか宿儺を隠すように自分に抱き寄せ五条の動きを注意深く見つめて警戒している。
さっきまで取り囲んでいたし警戒させてしまったのは仕方ないか、と五条はニコリと笑って再度問う。
「僕は五条悟。君は?」
「………?」
問い掛けても母親は首を傾げるだけだった。
え、まさか自分の名前知らないとかじゃないよね?五条は軽く目を見張る。
「…もしかして、分からない?」
恐る恐る問うと母親は泣きそうな表情をした。
待って、泣いたらまた宿儺出て来ちゃうンじゃないのか?と僅かに焦ったが母親は小さく頷き、俯いた。
「…分からない、覚えてない」
まさかの記憶喪失。
あっちゃー…と額に手をやった五条。宿儺が自分の子供だけはどうやら覚えているらしい。それが不思議でならなかったが記憶を失っているもんだから今あれこれ聞いてもしょうがない。
自分の事も分からず唯一覚えている宿儺を奪われ殺されそうになって凄く不安だろうに、母親だからと宿儺を必死に守ろうとする姿はいじらしい。
五条は母親に近付き、地面に膝を着いて低くなった目線で視線を合わせる。
「大丈夫。君を絶対に守るから」
僕の所でゆっくり記憶を取り戻せば良い、まだ安心出来ないだろうけど約束は必ず守る。
そう五条が伝えて手を差し伸べると母親は目を細めて確かめるように五条をじっと見つめた。
目隠ししてるから目は見えてない筈なのに琥珀の目と交差する。見つめる目が澄んでいてキラキラ光っているように見えて五条は目を奪われた。
「…ありがとう」
五条の言葉に嘘偽りがないと納得した母親はふわり、と笑って五条の差し出した手にそっと手を重ねた。
その笑顔を目の当たりにして五条は心臓の辺りにチクリと何かが刺さったのを感じて重ねられた小さな手を握った。